【出る杭は打たれるが出過ぎた杭は打たれない】
前に出会ったママ友達に
【出る杭は打たれる】
だけど、
【出過ぎた杭は打たれない】
だから、
《出過ぎてしまえばいい》
と言ってもらったの。
わたしは小さい頃から集団にいると
周りと同じことをしていても
指摘されたり、悪く受け取られたりする子で
母はそれでよく先生と話していたり、
学校に呼び出されていた記憶があります。
幼稚園ではとても良い先生に出会えて
楽しい幼稚園生活だったけど、
小学校ではそうも行かず
なんとなく自分が浮いてる存在な
気がする時期もありました。
《ありすちゃんがいると輪が乱れる》
母曰く、そう言われた事もあったとか。
中学校では入学早々
男の子たちに目をつけられたし、
高校では入学早々
上学年のベランダから
『アリス〜』と呼ばれて
とても恥ずかしい気持ちになり
この名前をちょっと恨んだ。
専門学校では反抗期だったのか
不真面目すぎて
連日先生からの呼び出し。
社会に出たらこの名前は
上司や患者さんから
可愛いね!
一度で覚えられる!
顔に似合ってるよ✨と言ってもらえて
やっと自分の名前が大好きになった♡
だけどどこか
周りからは浮いてる気がしてた。
同期と一緒にいても
1人だけ看護部長から声をかけられ
あなたの話は聞いていますよ
なんて言われたり。。
今の職場では仲も良くて
楽しく会話もできて
私はみんなが大好きなんだけど
なんとなーく浮いてる気がする瞬間もあって
ちょっとこのいつも浮いてる感覚
いつも【出る杭】な感覚は
どうして無くならないのかなぁ??
性格上、
人が作ったルールに従うことは嫌い
なのだけれど
そういう感じではなく
何ていうのかなぁ…
そんな時にママ友達から
【出過ぎた杭は打たれない】よ
と言ってもらえて
なるほどな!と思いました。
それをきっかけに
自分なりに噛み砕いてみた。
本来の【出る杭は打たれる】の意味は
《目立つ行動、他人と違う行動をすると
妬まれたり邪魔扱いされるという意味》
⚫︎出る杭=他人と違う行動を起こす時
なぜ打たれるか?
⚫︎打たれる=他人と違う行動を起こす時に
生じる自分自身の批判や葛藤が
現実となって現れる
他人との会話は自分の内面との会話。
現実に起こることは自分自身の反映。
出る杭となって使命感を持ってなにかをする時
できるかな?大丈夫かな?むりかな?
この内面の葛藤や不安が
他人から批判や評価や意見として
現実となって現れる。
それが、【打たれる理由】
解決方法は一つ。
自分の中で葛藤や不安があるうちは
当然周囲から打たれる。
さっさと決意を固めて実行する。
=【出過ぎた杭】になる事
が解決方法。
出過ぎた杭になり
さっさと行動し
それを実現した瞬間、
それは無謀だよ、
それは無理なんじゃない?
あなたって変わってるよね、
なんて言われることはなくなり
素晴らしい
【出過ぎた杭】になれる。
それは自分の中で
《これでやっていく!》
《これしかない!》
《これが好きだからやる》
《好きなことで生きていく》
という確信を持ち、葛藤が無くなったから。
ステップ1. こうしたいという感情の出現
ステップ2. 決意が固まらず批判を喰らう
ステップ3. 決意が固まり実行する→出過ぎた杭となる
人間はステップ2→ステップ3にあがるのが大変なの。
なぜなら【自分軸】が揺れてる人がほとんど。
自分軸だと思っているけど
それは誰かが構築した価値観だったり
育った環境に左右されていたり
【自分の内】と会話する機会が少ないから。
まずは自分の内なる心と会話すること。
自分の感情や気持ちをもう一度
再認識すること。
他人が言ってくる言葉は
もしかしたら認識していないけど
本当は自分自身の中にある感情かもしれない。
そういう視点をもって会話すると
相手が言ってくることって
ぜんぶ自分が思っていることだったりする。
冷静に受け取って
自分で噛み砕いてみると
《それは自分が崩せなかった拘りかも》
《昔から染み付いた手放せなかった価値観かも》
《人には言えないけど自分のイヤなところかも》
《固定観念にとらわれていたなぁ》
なとなど。
自分が最後まで手放せなかった何かを
他人が教えてくれてるかも?
という気持ちで相手からの
批判や評価を受け取ってみると
気づかずに執着していた
《自分の何か》に気づけるはず。
《自分の囚われていた何か》
に気づけた瞬間、
その囚われていた何かからは
もう囚われていないって
いうのが不思議なことで🤣
ちょっとこれはスピリチュアル的な
雰囲気が出ちゃって気持ち悪い人もいるだろうから
自分で実感するしかない。
でも、囚われていた何かに
気づけた瞬間に
本当に解放されたり
しちゃう。
それが【自己受容】ってこと。